2006年10月26日 (木)

作家の力量(続き)

文庫版 姑獲鳥の夏

文庫版 姑獲鳥の夏

一昨日の続きです。

本作品は導入部分で妖怪についての説明を行っていますが、その説明の際に、量子論を例に出して説明を加えています。

妖怪を説明するのに量子論です。

簡単にまとめると、観測してみなければどこに量子が存在するかということが確定できないという量子論の概念を使って、だから、妖怪をリアルに見たり感じたりできない(観測行為ができない人)にとっては、妖怪など存在しないが、リアルに見たり感じたり出来る人(観測行為が出来る人)にとっては、その妖怪が確かに存在する。

という説明です。

ある特定の妖怪がどこに存在するのかという質問は、ある量子がどこに存在するのかという質問と同じくらい、答えにくい質問だと理解しても良いのかも知れません。

なぜなら、観測してみないと分からない、というのが答えだからです。

もちろん、妖怪を見ることが出来る人は現在では非常に限られているはずですが、量子を観測できる人は多分非常に多いだろうという違いはありますが。

そして、この観測行為(見るという行為)が本作の事件を解決するヒントになっており、また、観測行為自体が対象(事件)に影響を与えてもいるのです。

すごい伏線でした。

星5つのお勧めです。

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2006年10月24日 (火)

作家の力量

文庫版 姑獲鳥の夏

文庫版 姑獲鳥の夏

京極夏彦さんのシリーズ5作目「絡新婦(じょろうぐも)の理」が名作だと聞き、ただ、これを理解するためには、1作目と2作目を読まないといけないという書評を読んだので、まずは1作目の本作を読んでみました。

もともとミステリー小説はほとんど読まないので、実はそれほど期待していなかったのですが、これは非常にお勧めです。

本書はミステリー小説ではありますが、著者の想いというか、主題がはっきりとしていて、本書の場合は、

「差別の克服」

と言えるかと思います。

あまり詳しく述べるとネタバレになってしまうので言えませんが、「差別の克服」ということについての著者の強い想いを感じました。

その一方で、本シリーズを通しての主題のようなものもあり、それを端的に示している主人公(京極堂)の言葉があるので、引用してみます(612頁)。

世界はいつも、何があろうと変わらず運行している。個人の脳が自分に都合良く日常だ、非日常だと線を引いているに過ぎないのだ。いつ何が起ころうと当たり前だし、何もおきなくても当たり前だ。なるようになっているだけだ。この世に不思議なことなど何もないのだ

他の作品を読んでいないので単なる推測ですが、主人公の京極堂の基本的な物の考え方を表している言葉なので、これがおそらく、このシリーズを通しての主題(及びトリックの構造)かと思います。

この作家は相当すごいと思うのですが、その凄さについては、明日書きます。

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2006年10月16日 (月)

世の中の見方と見え方(続き)

衝撃はまだ続きます。

物理学は進化し続け、ついには、時間と空間についても説明をしようとしています。

時間についての説明は、正直良く分かりませんでした・・・。

何でも、ゼロ以前の時間を想定することで、宇宙の始まりを上手く説明できるそうなのですが、私の理解を超えているので、省略します(笑)。

ただ、空間の説明の方は、だいぶ分かりやすい。

もちろん、これも説明の仕方は一種類ではないのですが、分かりやすい方を使わせてもらうと、空間も、デコボコしているらしいです。

ちょうど、水が水分子から出来ているように、空間も空間の素というもので出来ていると予想できるそうです。水分子と水分子の間には水がないように、空間の素と空間の素の間には何もないことになります。この空間の素の大きさは、これまた計算で予想することができ、原子核の1000京分の一よりも小さいそうなので、もちろん、見えません。

このように、この空間の素というのは非常に小さいものなので、量子論でいうところの法則に従い、砂粒のようなものではなく、お湯を沸騰させた時に生じる泡のようなものになると思われます(多分)。

これのどこが衝撃かというと、宇宙の果てをイメージしやすくなったかなということです。

よく、宇宙はすごいスピードで広がっているといいますが、じゃあ、その先には何があるんだと前から思っていたわけです。ただ、空間の素というものが想定されるのであれば、要は、宇宙の果てには、その素さえないというわけで、何もないということがあり得るなと思うわけです。

ただ、著者も少しほのめかしているのですが、結局、世界の真の姿を知ることは出来ないのではないかと言ってます。

恐らく理由は二つ。

一つ目は、宇宙が出来た後に、人間の脳が出来たので、そもそもそんな人間の脳に、宇宙の発生など、自分を創った世界の姿を知ることができるのだろうかという疑問。生みの親を理解できるのかという感じでしょうか。

二つ目は、怖い話ですが、全てが虚構かも知れないという恐れ。要は、このように考えていること全てが虚構かも知れないという予想があり得るということ。ちょうど、映画の中の映画という状態が永遠に続いているようなイメージですが。

すべてが虚構かもしれないなどという結論が、物理学から出てきそうだというわけですが、そんなことがあっていいのだろうかと混乱しつつも、妙に納得してしまうのでした。

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2006年10月15日 (日)

世の中の見方と見え方

物質をめぐる冒険―万有引力からホーキングまで

世界が変わる現代物理学

竹内薫さんの上記2冊を読みました。

私は物理の素養は全くと言っていいほどないのですが、この2冊は物理というよりも哲学の本だと思いました。

物理学者がどのように世界を理解してきたかということが書かれていますが、それはとりもなおさず、世界をどのように見てきたかということの説明です。

どちらも、主要部分の説明は、相対性理論と量子論なのですが、さらに進み、現在はどのような世界の理解の仕方があるかということも説明しています。理解した範囲で説明をさせてもらうと、

例えば、私が高倉健主演の映画を観ているとします。そして、その映画の中で、高倉健は三船敏郎主演の映画を観ているとします。

この時、私は、自分が住んでいる世界が本物で、高倉健が演じている映画の世界は偽物だと思って観ています。しかし高倉健が演じる人間の視点で考えてみれば、高倉健が演じている人間は自分のいる世界が本物で、三船敏郎が演じている映画の世界こそが偽物だと思っているはずです。

しかしここで、もし三船敏郎演じる人間が、さらに別の映画を観ていた場合、当然に、三船敏郎演じる人間は、自分のいる世界が本物で、彼が観ている映画の世界が偽物だと思っているはず・・・。

では、どれが本物なのかと。

答えは、どれもが本物であるということ。

私にとっては、現在自分が住んでいる世界が本物なのであり、高倉健が演じる人間にとっては、その周りの世界が本物なのであり、三船敏郎が演じる人間にとっては、その周りの世界が本物なわけで、どれが偽物であるなどということは、別の世界にいる人間が言うことでしかないということ。

これが相対性理論の核になる考え方です。(多分)

そうだとすると、「同じ物理現象を観測しているのに、観測者によって観測結果が違ってくる」(世界が変わる現代物理、P.99)ということも意味が分かる気がします。

次に、量子については、これは非常に小さくて、ちょっとしたことでも影響を受けてしまうものなので、観測という行為自体も量子の状態に影響を与えてしまうことになります。

そのため、量子とは、観測してみないと、どこに存在するかということさえ確定的には分からないけれども、観測した後には、観測の影響を受けてしまっているので、観測以前とは違う状態になってしまっているかもしれないという、そのようなものです。(多分)

その結果、「観測してみないことには、その位置や状態が確定的に決まらない」ものが存在するということは、このことはとりもなおさず、「観測者がいなければ、存在しているとも、また、どのような状態であるともそもそも言えない」という考えが出てきます。

これって、同じような議論が哲学にもあるではないかと。

物理と哲学が同じようなことを考えていることに、驚いた瞬間でした。

(続きは明日)

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